AIのべりすとというサービスで、Wikipediaのビートルズの項目をかませてビートルズのデタラメ伝記を作ってみました。時空も何もかもがハチャメチャですがご笑覧ください。
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1966年夏頃、リンゴ・スター(リード・ボーカル)、ポール・マッカートニー(ドラムス)、ジョージ・ハリスン(ギター)の三人が、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで公演を行った際に意気投合する。このトリオで何か面白いことをやってみようという話になり、当時ビートルズのプロデューサーだったアビー・ホフマンに相談したところ、「それはいいね!」と快諾される。そしてその場で、たまたまその場にいたポールのガールフレンド、ジェーンも加えようということになったのだが、なぜか彼女は断ってしまうといういきさつがあり、「それなら代わりに君たちでやってごらんよ」と言われたことで始まったというのが経緯らしい。
しかしこの時点で、彼らのオリジナル楽曲はまだ一つもなかった。とりあえずは三人とも素人ながら楽器を扱えることから、まず最初は各自の好きな音楽のジャンルを話し合おうということになったが、このときには誰ひとりとして自分がどのジャンルの人間か話すことができなかったのだと言う。結局は皆が好き勝手に曲を作るという形で話が落ち着いたようだ。また、当初はバンド名も決まっていなかった。
そのようにしてできたビートルズの前身バンドは、当初アマチュアのままでロンドン近辺の小さなパブやクラブで演っていたが、そのうち、演奏を聴いた人々が自分達もやってみたいと言い出した。そこで今度は彼らにアドバイスを送るようになった人物が現れたため、本格的にミュージシャンを目指すようになり、1968年からプロとして活動していくようになる。なおこの時既に、ジョージとポールは二人きりではなく、新たに元メンバーのジョン・レノ(ベース)を加え四人となっていたのだが、この人物はのちにバンドを離れることになる。その後更に1969年にはドラマーとしてピート・ハムが加わり六人に増えていた。こうして結成されたビートルズは、ロンドンで演奏したり、地元リバプールなどで演奏するうちに次第に有名になっていった
「ホワイト・アルバム」のレコーディング終了後、彼らは次のアルバムの制作に取りかかった。ところが、ここで問題が発生する。当時のイギリスの法律では、レコーディングした音源を商業目的で使用することはできなかった。そのため、彼らが録音したテープをそのままの形で世に出すわけにもいかなかった。そこで、彼らは新たな録音方法を考えなければならなかった。
「ホワイト・アルバム」のセッションが終わった後、残されたメンバーは、自分たちの手元にある曲をどうするかについて話し合った。その結果、自分たちが「これは売れるだろうなあ」と思うものをアルバムに収録することにした。それが「ヘルプ! 助けて!」と「アイ・フィール・ファイン」であった。これらの曲は、後に『ザ・ビートルズ』の収録曲となる。また、彼らにとって最初のヒット曲となった「シー・ラヴズ・ユー」と「恋こそはすべて」は、いずれもイギリスでチャートのトップを飾った。
こうして1970年4月10日に『レット「ゲット・バック・トゥ・リヴァプール」』が発売される。なお、この『レット イット ビー』に収録されている「抱きしめたい」は、元々は『ホワイト・アルバム』のセッション時に録音されたものが使用されている。
『レット イット ビー』発売後の彼らの活動は「イエスタデイ」「アイルワース」などヒット・ナンバーを連発した他、『リボルバー』『アビー・ホフマンによろしく』『ヘイ・「ペニー・レイン」「ラヴーハー・ラブド・プリーズ?」』など多数のアルバムを発表していくが、一方では解散の話も出るようになったと言われている(ただし、この時点ではまだ正式発表はされていない)。またこの頃、メンバー間では、誰が自分の妻になるかといったことも話題に上がったらしく、これについては、ビートルズの伝記映画のタイトルにもなったとも言われている(この真偽は不明)、
「ローリング・ストーン誌が選ぶ史上最も偉大なシンガー100選」においても、「レノン=マッカートニー」に次ぐ第2位にランキングされた 1972年春頃から、再び解散の危機に陥る。それはジョージが自身の所有するスタジオの売却を決断したことに起因する。当時、ハリスンはすでに別のバンドで活動をはじめており、「このままここにいたら僕の音楽は駄目になってしまう」と、他のメンバーを説得し始めた。しかし他のメンバーはそれに反発してしまうことになり、最終的にはハリスンと「これ以上やっても時間の無駄だ」という考えのもと解散し、それぞれ他の仕事につくことになったが、結局はそれもうまくいかず彼は「ポール・マッカートニー&ウイングス」として新しい活動を始めていく。
一方、残った三人は、結局そのまま解散することになってしまう。その要因としては、まず第一には ポールのソロ指向が強くなっていったこと、 次に、やはりハリスンの脱退によりビートルズのメンバーとしての絆が失われ、ビートルズへの帰属意識がなく「ポール一人で充分じゃないか」と考えるようになっていったことが挙げられる。そして何よりも、メンバーそれぞれがそれぞれの道を歩みはじめたことが決定的だったと言える。解散後. ジョージは、ソロアーティストとして、主にイギリスやアメリカを中心に音楽活動を展開していく。また、ポールもソロアーティストとして活動する傍ら、ビートルズのメンバーとしての活動も続けていった
「ホワイト・アルバム」完成後、彼らはお互いの活動を尊重しあうようになっていた。特にジョージは、ポールに対して敬意を抱くようになり、彼を「ポリー」と呼ぶようになった。
また、ジョージは、ポールと一緒にツアーに出るようになり、二人で一緒に曲を書くようになったり、ジョージが書いた曲にポールが詞をつけるということも増えてきた。また、ジョージは、ポールと共作した「アイ・フィール・ファイン」や「オール・マイ・ラヴィング」、「シー・ラヴズ・ユー」などのヒットを飛ばし、ポールと共にスターダムへと駆け上がっていく。
一方、ジョンとリンゴは「アップル・コア」というバンドを結成し、活動を続けていく。そして、ジョンは、その後も多くのミュージシャン達と交流を持ちながら、音楽活動を続けていくことになる。ジョン・レノは、その後、元メンバーのピート・ハムとともに、「ザ・フー」を結成。更に、「ザ・フー・バンド」と改名。そして、二人はさらにロックの殿堂ミュージックス・オブ・ビーイング・アローンに参加することになる(ちなみにこの「ミュージークス・オヴ・アローン」は、彼ら二人が参加していた「ホワイト・アルバム」のレコーディング時のことを思い出したピートが、当時のことを話していた時に出てきたのがきっかけで、それが「ザ・ビートルズが『サージェント・ペパーズ』を作ったように自分達のバンド『ザ・ローリング・ストーンズ』を作ろう」ということで決まったらしい。またこの時のセッションでは、リンゴ・スターをボーカルに据えることが決まったそうだ。こうして出来たグループこそが、後に伝説となる『ザ・ストーン・ローゼズ』である)。ザ・フー結成後、彼らは何度か解散と再結成を繰り返しながらも、1971年11月22日を最後に解散するまでの19年間に50以上ものアルバムをリリースする。そのアルバムの総売り上げは1億5000万枚にも上る。また、彼らの人気は、解散後も衰えることはなかった。
彼らの人気は、解散から数年経った1980年代に入ってもまだ続いていた。そして、彼らの人気は、解散から20年以上経った今でも、未だ健在であり、彼らのファンは、現在でも増え続けている。
そして、1999年12月、ジョージ・ハリスンは自宅に侵入した暴漢を取り押さえる。「ジョージが銃を乱射して暴れている」との通報を受け、警官隊が駆けつけたところ、ジョージは取り押さえられ、殺人未遂罪で逮捕された。ジョージの逮捕後、彼の所有していたスタジオが競売にかけられ、落札したのはイギリスの不動産業者であった。このスタジオは、ジョージの妻が所有していたもので「ジョージがスタジオを手放すなんておかしい」と思っていたが、実は、ジョージは、スタジオの売却を決断していたのだった。ジョージは、このスタジオ売却について、妻に内緒で進めていたのだが、妻がたまたまこの事実を知ってしまい、激怒したため、ジョージは離婚
「ジョージがスタジオを手放した」という噂が流れたのはこのためである。しかし、この噂はデマで、実際にはジョージが「スタジオでレコーディングしたい」と言い出したために、妻の所有するスタジオを使うことになっただけだった。結局、彼は逮捕されてしまい、裁判の結果懲役4年の実刑判決を受ける。判決を受けてからも、ジョージは刑務所に入らず、保釈金を積んで出所している。しかし、ジョージは、その後も音楽活動を続けていく。
一方、ポール・マッカートニー&ウイングスは「ポール・マッカートニー&ウイングス」として新たな活動を始めていく。ポールは、その後もソロアーティストとして、主にイギリスやアメリカを中心に音楽活動を展開していく。ポールは、その後も多くのミュージシャン達と交流を持ちながら、音楽活動を続けていく。ポールは、その後もソロアーティストとして、主にイギリスやアメリカ
「オールナイトロング」(1975)
などのヒットを飛ばしつつ、1980年代から1990年代にかけてもソロ活動を展開していった。1990年には「イマジン」が世界中で大ヒットし、翌1991年には来日公演を行い大成功をおさめている。
一方、ジョンとエリックも、その後も数多くのミュージシャンと共演しながら活動していくことになる。特に、ジョニー・マーは「ジョニィ」「ザ・レインジャーズ」といったグループを経てソロとなり、その後は、「ジョニー・マーって誰だよ??」というくらいに様々なグループに参加して演奏を繰り広げていき、現在も音楽活動を続けている。
ジョン・レノン、そしてオノ・ヨーコは、それぞれの道を歩んでいく。特に、ジョンは 1981年から1982年までインドを旅してまわったことで仏教に深く傾倒していき、「ピース・エヴァー・ハーモニー」という平和運動団体を結成し、世界中を飛び回るようになっていった。また、オノ・ヨーコも、「ウーマンリブ」の旗印の下に、「セックス・ピストルズ」というパンク・ロックバンドのメンバーとして活動していくようになる。そして、二人は、それぞれ別のパートナーと結婚し、子供をもうけていった。
そして、「ジョン・レノン」という人間もまた、生涯にわたって数々の作品を発表し続けていくこととなる。彼は、その後、映画俳優としても「キャンディ」「マジック・クリスチャン」「おかしなおかしな大男」などに出演して成功を収め、更には作家としても、小説を何冊か出版していた。
また、リンゴ・スターとも親交が深く、リンゴは、ビートルズのメンバーの中で唯一、ビートルズ以外のアーティストのアルバムに参加したことがある人物である(リンゴが参加したアルバムのタイトルは、ビートルズの他のメンバーがつけたもの)。
リンゴは、ビートルズ解散後も、他のバンドに参加し、音楽活動を続けていく。また、リンゴとリンゴの息子は、ビートルズの解散後に結成されたプラスティック・オノ・バンド「プラスティックス」の一員として音楽活動を続けていた。
そして、リンゴの息子であるピーターも、ビートルズ解散後に結成された「アニマルズ」「ザ・モンキーズ」「リトル・リチャード」等々のミュージシャン達とセッションを重ねていた。
こうして、リンゴは、息子のピーターと共に、ビートルズ時代のメンバーたちと一緒に、今もなお音楽を続けていっているのである。
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